夜道の画鋲・見たことのないもの

駅のタイルで足が滑るような気がした。改札を抜けると今にも出そうなバスが見えた。考えずに走った。僕のどこかで何かがカチカチ鳴っていた。走りついた目の前で乗車口が閉まった。コンマ数秒の落胆。かわりに別の扉が開いた。
 "前からどうぞー" 

「…ありがとうございます」
もごもご言いながら乗り込んだ出口側は混み合っていて立っている隙間もなかった。親切な運転手は、なぜ出口側から僕を乗せたのだろう。分からないけれど理由があるのだろう。

「すいません…」と言いながら人のあいだをすり抜けて比較的空いている後部へ移った。そのときも何かがカチカチ言った。流れてきた小枝が引っかかるみたいに見つけた吊革につかまり目を閉じた。イヤフォンからはピノ・パラディーノのゴム鞠みたいによく弾むベースラインと昔よりいくぶん嗄れたディアンジェロのファルセット。

降りようとする男に押し退けられて目を開けた。ややむっとしたあと、うなだれて下を見ると爪先で何かが光った。右足の薬指の先あたり。ほんのすこし見えただけで分かった。さっきからカチカチ言っていたのは靴底に刺さった画鋲だった。靴の底に画鋲。懐かしいでしょう。

それまでなんでもなかったものが、ひとたび気がついてしまうとどうにも落ち着かなかった。おそらくソールの厚さより短い針が今にも指先に刺さりそうな気がした。かと言って押し合いとまでは行かずとも混み合ったバスのなかで屈んで抜き取る気にもなれなかった。
ここまで刺さらなかったんだからほっといても刺さりやしない。つまりこれは気分の問題だ。僕はこういう感じを他にも知ってる。さてなんだっけ…。バスを降りるまでのあいだ、そんなことを考えてチクチクするような感じを紛らわせた。

運転手にもう一度礼を言ってバスを降りた。バス停から数歩、カチカチ歩いた。なんとなく恥ずかしくって他の人がいなくなるのを待ってから抜き取った。いつから刺さっていたのだろう、画鋲の頭は傷だらけだった。針は意外と真っ直ぐなままだった。

足もとの不安は去り、くらい夜道とひとつの画鋲が残った。刺さりそうなものをポケットには入れたくない。その辺に投げるわけにもいかない。仕方なしに指先に摘んだそれを眺めながら帰った。夜道で画鋲を持っているというのは初めての状態だなと思った。

これだけ生きてきても経験したことのないことがまだまだあるものだ。オフィスで剪定鋏を握りしめてるとか、波打ち際で万年筆持ってるとか。他にもそんな組み合わせはいくらでもあるのだろうけれど、今日の組み合わせは悪くないものに思えた。見ていないと失くしてしまいそうな小さなそれは、街灯やヘッドライトを反射してときどきキラッと光った。
わざと光らせて写真を撮った。
部屋に着くと柱に刺した。


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