オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』随想

このようにして我々の一人一人は何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう。

19世紀フランスの革命家、オーギュスト・ブランキの『天体による永遠』を読んだ。生涯の大半を獄中で生きた革命家の最後の著書なのに、宇宙についての本という変り種だ。理系がさっぱりの俺には、この宇宙論が現代科学から見てどこがあっていてどこが間違っているのか良くわからない。

ブランキの宇宙観をつづめて言うとこうなるだろうか。

①宇宙は無限である。

②宇宙を満たす元素の種類は有限である。あらゆる存在は、この有限種類の元素の組み合わさりと、その変化である。

③有限種類の元素の組み合わせを無限に行うならば、全く同じ組み合わせのものが、無限個出現する。

④帰結として、この宇宙には、そこで生きる私達も含めて全く同じ姿と歴史を持つ星が無限個存在する。そして、その生成変化の全ての瞬間に対応する星と、その過程の全分岐に対応する星も、無限個存在する。

こうして、それぞれの惑星のお蔭で、すべての人間は、自分の人生と全く同じ人生を送っている数限りない分身を、この宇宙の広がりの中に持つことになる。彼は現在の年齢の自己だけでなく、彼のすべての年齢時における別の自己という形でも、無限かつ永遠なのである。彼は現在の一瞬ごとに、何十億という誕生をしつつある瓜二つの自分、死んでゆく自分、また誕生から死までの生涯の一瞬ごとに並んでいるすべての年齢の自分を同時に持つのである。

俺はこの宇宙観の正誤を判断する知識を持ち合わせていないが、たぶん間違っているのだろう。しかし、この無限個数の同一世界が反復・並列するイメージには惹かれるものがある。この小さな本を読むなかで、いろいろなものが連想されたので、ここではそれを勝手に並べておく。

まず、当然挙げなくてはならないのは、訳者による解説でも中心的に触れられているニーチェの永劫回帰。

お前は、お前が現に生き、これまで生きてきたこの人生を、もう一回、さらには無数回にわたり、繰り返して生きなければなるまい。…          ーニーチェ「華やぐ智慧」

俺はニーチェを好きだが、永劫回帰について「『これが人生というものであったか?よし!もう一度!』ってのは、青汁の『まずい!もう一杯!』みたいなもんだろ?」と言う人になんだか納得させられたことがある。不味さと健康という取り合わせはルサンチマンの臭いがする。人生を肯定するのに、わざわざ永劫回帰のようなけったいなものを飲まなくてはならないのは、その生においてあまりにも傷ついてしまった人だけではないか。付言すれば、俺は傷ついた人が嫌いではない。

ブランキの論理的幻想からは、ボルヘスも思い出さずにはいられなかった。「伝奇集」所収の『八岐の園』は、「時間」をテーマにしているが、あらゆる可能性が同時的・並列的に存在するブランキの宇宙と、着想がかなり近い。ただひとつの起こったことの陰でうごめく無数の起こらなかったことの気配が、ごく短いサスペンスを多層的なものにしていた。

「たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、別の時間には、二人とも存在する。…」
わたしは、前に話したあのうごめきを感じた。家を取り囲んでいる夜露に濡れた庭園が、目に見えぬ人間で果てしなくあふれているように思われた。これらの人間は、時間の別の次元のなかで隠密に行動し、多忙をきわめ、ほしいままに変化(へんげ)するアルバートとわたしだった。                 ボルヘス『八岐の園』


科学的正誤はさておき、ブランキの永劫回帰的宇宙観を採用した場合、それはどのように作用するのだろう。 想像してみよう。俺の挫折や悲しみを知らないですむ俺の分身たちが、この宇宙のどこかで俺のかわりに幸せに生きている。この俺が、どんな挫折や悲しみに濡れていてもだ。一方、それと同じだけの数の分身たちは、俺以上の挫折をし、悲しみ、後悔にまみれて生きている。だとすれば、この俺はまだラッキーな方かもしれない…。やっぱりだめだと思った。俺とまったく同じ肉体と来歴をもち、これから起こる出来事に対しても同じように考え、同じ経過をたどるやつが本当にいたとしても、だからって、そこにいるそいつはそいつであって、この俺ではない。あるいは、こうも言える。もしも俺が、単に俺に似ているだけの誰かの幸不幸や永遠によってすくわれるのなら、そいつらは俺に似ている必要すらない。

永井均は、自分の分身のようなやつがもう一人居たとしても、その一方のみが自分であって、もう一方は自分ではなく、自分とそいつには決定的な違いがあるということを、形を変えて繰り返し考察している。(永井は哲学者だが、相当のSF好きらしい。)

ぼくと全く同じ人間、つまり全性質がまったく同じである人間がいたら、そいつはぼくだろうか?
宇宙空間のどこかにふたごの地球があって、そこに瓜二つの人間がいたら、そいつは自分か                        ー永井均『〈子ども〉のための哲学』

永井が考えている〈わたし〉というのはややこしくて、"自分"なんて誰にでも当てはまる言い方では言えなくなってしまう自分の自分だけさというか…うまく説明できそうもないので、俺の好きな永井の言葉をあげて、この手前勝手な列挙を終る。

ぼくはかつてこんなふうに思った。他人と毛虫と冷蔵庫と太陽は、どれもみんな似たりよったりだ。ぼくだけはそいつらとぜんぜん似ていない。    


それにしても、革命家が最晩年の著作で全宇宙的に進歩を否定したというのは救いのない話だ。しかし、無限に繰り返す生と宇宙と、それを書いた獄中の老革命家のイメージは、この俺を慰めてくれた。

最後に、俺はこの本をgoldheadさんのすばらしい記事で知った。

『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ - 関内関外日記




天体による永遠 (岩波文庫)


ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

伝奇集 (岩波文庫)

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス