人間と相似形をなす宇宙に反対する。

1.
人には、祈るしかないという局面がたしかに存在する。ごく稀に誰かのことを案ずるときにそう思わされる。
がんらい物事はあっさり諦める性質だから、自分の事で祈る事はあまりない。(本当にそうか?)さて置き、祈ることや信じることこそが、人間を人間たらしめる当のものかも知れないとは思う。

2.
ヴィトゲンシュタインに倣えば、明日もこれまでと変わらず日が昇るだろう、と言うのは無根拠な信念=ある種の信仰だろう。しかしそれが、俺の世界を成立・存続せしめている当のものでもある。明日や俺の死後には存在しないような世界とはどういうものなのか俺にはよく分からない。

3.
現世利益を説く宗教を信じている人は、諦めるという事を知らない。あるいは信仰者でいるということは、己の幸いを信じることではないか。彼らはめいめい、現世における利益や彼岸での救済に浴するための唯一の、ほんとうの鍵を握っている。鍵同士の互換性はたいてい否定される。
彼らがしぶとく生きていくうえで、それはたいそう力となるだろう。しかし、それは麻酔ではないか。この生の無意味さや、この世界の理不尽さを直視する事をしない点で弱さではないのか。
(仏教には転受軽受と言う言葉がある。信仰者が被る不幸は、本来さらに悲惨なものであり、信仰によって軽く済むのだというのだ。あるいは人格神による「試練」。まったくよく出来たプログラムじゃないか。信仰者になにが起ころうと教えだけは負け知らずだ。)
(人間社会の理不尽は、また別個の話だ。人間どもが決めた事であるならば、人間によって変わり"うる"。ただ原理的にそうであるに過ぎなくとも、少なくとも原理的にはそうだ。社会の理不尽について必要なのは、祈りではなくて単なる変更だ。やり方?そんなものは知らない。あなたがワタミを勝たせない方法を知っているなら、教えてくれないか?)

4.
俺には、多くの宗教が説くほど世界は人間的でないように思われる。多くの宗教が説く善行や悪行、それが招くとされる救済や裁きなどは、まったく人間の情に由来するものにしか思えない。 
それがいくら切実なものであろうと、言語を持つに至った生命の宇宙に対する叫びであったとしても。この冷たい宇宙のなかそれは人間的、あまりに人間的ってやつではないか?
大乗仏教の九識論は、人が為すあらゆる善行や悪行は、生命が蔵する阿頼耶識と言うストレージに保存され、来世において、その行為属性に従った果報をもたらす因果の種子となると言う。心理学の意識/無意識の話なんかとかぶる感じも面白いし、すべてを唯一神の思し召しとするよりは物理法則じみていて興味深い説明だが、じゃあ、その善悪はいったい誰が判断するんだ?
 良かれと思ってなした事が結果、害悪を招くなんて人生じゃ茶飯の事だ。でも本人は混じりっ気なしの善き意思を持ってそれをなしたんだぜ?でも、それで例えば誰かがちょっぴり不幸になったとして、それは善行なりや?悪行なりや?結局、教え主の好みの問題じゃねえの?

歴史ある宗教が説く内容は、大抵人倫と一致するところのものが多いにせよ、大半は人間の社会生活上の知恵でしかないわけやん。あとは、好き放題の世界観の設定と、その言説じたいの自己保存のプログラムの部分。教え、弘めよってやつ。宗教の語ることの主成分は、だいたいその三つだろう。
そんなものが宇宙を貫く真理だとか、世界を裁く神の法だなんてのは、まるで天動説じゃないか?そんなものはヒューマニズムじゃないか?宇宙が知ったことか?
規則正しい天体の運行の、いったい何処に善なる意思が介在する余地があると言うのか?山のなかで、不具の鹿がむざむざと死ぬ事に理由などない。世界の片隅で俺や、俺の愛しい人や、あなたが死ぬ事にも、客観的意味などない。

5.
俺は、俺の生を、俺の生の外側から意味づけるあらゆる説明体系を拒否する。俺は、俺を偶々の海からつまみあげることに反対する。
俺は、そのような言説を生業とする者をペテン師と見做す。例えそれに救われる者たちがいたとしても、(とてもよく効くらしいのだ)それは単なる事実であって真理ではない。或る人たちによれば、俺には前世の善行による特別優待があるそうだ。身に覚えのない特権など、俺は断る。

確かに、人には祈るしかない時がある。しかし、その祈りを聞き届けるものはいない。こんなにも、おそらくは当たり前の事を、俺は声高に指差し確認しなくてはならなかった。それは俺の生育歴による。俺は自分が育った揺りかごを破壊する必要があった。しかし、そうせざるを得なかったのも、偶々の事だ。