王子と乞食

小学校にあがった年の誕生日の夜、父が仕事帰りに買ってきたのは何冊かの本だった。誕生日こそは、ほかの子たちとおんなじにファミコンがもらえるのだと信じていたのに。彼は泣きたいくらいだったが、父の贈り物を喜ぶ振りをした。うわー、ありがとう!


翌日の夕飯どきに彼の父は、今日はどの本を読んだんや、どんな話や、と彼に尋ねた。…今日はまだ読んでない、と彼が答えると父はひどく不機嫌になった。本のプレゼントは期待外れなだけでなく義務さえも伴っていた。


父による読書の点検はしばらく続いた。彼は夕飯のたびにエジソンやガリレオの人生だの、トム・ソーヤがどうやってペンキ塗りをやらずに済ませたかについて記憶を頼りに説明しなくてはならなかった。読んでいない日に読んだふりをしたりすれば、父専用の太い黒檀の箸が頭に打ち据えられた。のちにふりかえって、あれは見ていて可哀想だったと母はいったが、彼女が父のすることに口出しすることはなかった。できるはずもなかった。


彼が記憶するいちばん古い父の姿は、毎朝繰り返された出勤前のそれだ。父は仏間に突っ立って、足元にひれ伏すような母に足を突き出し、靴下を付けさせている。母から聞くには、6人兄弟の長男である父は祖母に特別に甘やかされ、兄弟のなかでひとりだけ、万事そのようにされて育ったらしい。そして厳格で激すると止められぬところがあったという祖父の血を継いでか、父は意に沿わぬと見ると妻子に容赦なく手を上げた。


その挙動は信じられないような速さだった。病的な速さと言っていい。女子供を黙らせるにはたいてい重い平手打ち一つで事足りたものだが、母が抵抗したりすれば髪を掴んで引きずり、声も出なくなるまで殴打を重ねた。突然の怒号、圧倒的な暴力。泣き叫ぶ妹たち。床にぶちまけられた夕飯はどうしたらいいのか?自分で呼んだ救急隊員に泣きながら謝り、搬送を断る母親。頭から流れる血。床の食いものはどこからどうしたらいいのか?


父が硬い勤め先を持ち、人並み以上の稼ぎがあったこと以外は安手のメロドラマのような機能不全家族だった。毎日がそうだったわけではない、穏やかな日もなかったわけではないが、いつ暴発するかわからない男が家に居るだけで、彼はたまらなく気詰まりだった。育ってのちまでその印象ばかりが強く残った。祖父母に手をあげられたことはなかったという母は、だんだんに家事を放棄し、宗教と子供の教育に入れあげるだろう。そしていつしか子供らに手を上げるようになるだろう。努力家で優等生であった上の妹は社会に出るなり精神を病むだろう。彼女が父の反対を押し切って就い仕事は児童福祉だ。自分たちのような子供を助けるのが彼女の夢だった。下の妹は若くで嫁いだ先で子を設け、共依存とDVの輪を再生産するだろう。長男はこれら全てから背をそむけるだろう。ファミコンをやめても、それ同然に閉じた世界に耽溺し続けるだろう。


彼が与えられた本の一冊は、マーク・トウェインの『王子と乞食』だった。いつか破局を迎えるに違いない(彼にはそう思えた)、どう考えても釣り合わない身分交換の顛末を読むのが彼は嫌でたまらなかった。(なんであいつらはあんな馬鹿げた真似をするんだ?)まわりの子たちと違う、制服を着て行かねばならない学校も、沈黙の食卓も、箸による屈辱的な打擲も、平手打ちも、親孝行を意味する自分の名前も(それは両親がつけたものではない。彼らが信仰する宗教の親玉がつけたものだ。彼の通った学校は、そんな奴ばかりがいるところだった。)何よりファミコンがないことも、彼は嫌だった、本当に嫌だった。幼い彼は、自分もあの本の主人公たちのように他所の子と入れ替われたらどんなにいいだろうと夢想した…となればあの本を嫌々読んだ甲斐も、この暗い作り話のオチもあったのかもしれない。ファミコンが欲しかっただけの愚鈍な七歳はそんな想像など露もしなかったし、二十数年後にはあの鬱陶しい寓話の結末も、結末まで読んだのかどうかすら思い出せやしない。いったい彼らはうまくやりおおせたのか。王子と乞食の話だ。あいつらは入れ替わったままだ。