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こどものころと、こどものことと

当初、勉強はできた。計算の必要ないものに限って。算数は繰り上がりのある足し算で躓いた。10歳くらいのとき、家で毎日読まされるお経の漢字の羅列が、幼稚園のころに読まされた仏教えほんのストーリーの一つであることを突然理解した。得意になって、教理の学習会に大人に混じって参加した。

親が俺を通わせた私立小学校では、高学年になると定期試験があった。個票には順位が書かれていた。だいたい学年で5位以内だった。それでも親は、勉強しろ、そればかりだった。机やカバンはいつもぐちゃぐちゃ、プリントはことごとくなくし、学校も塾も宿題を期限までに出したことがなかったから、それも仕方なかったのかもしれない。俺としては、やらなければならないことは理解していたし、いつも自責の念にかられていたが、どうしてもできなかった。まるで勉強しなくなった中学の終わり頃には成績は地に落ちていた。

こどもの世界では、はじめから何をやっても優勝劣敗の劣敗の方だった。普通に遊んでいて肩を脱臼するほど筋力がなく、借りたマリオは1の2を超えられず、ドッジボールが恐怖の対象で、話し言葉がときどき虚構じみていて(関西育ちなのに、からかいに怒って「このヤロー」と本気で言ったりする。結果、なにカッコつけとんねん、と、さらにむごくやられる。)百戦連敗のくせにケンカっ早く、教師にも問題視され(俺が人を挑発したことは誓ってない。)、幼稚園の時点で容姿に強いコンプレックスがあり、音や感触に神経質で、大人にも子どもにも、よく見えすいた嘘をついた。

こどもに絵を教えたりするようになって接する子どものなかに自分と同じ匂いのする奴らがちらほらいることに気づいた。その割合がクラスに数名程度なのか学年に数名程度なのかはわからない。
そいつらは絵が好きで比較的うまい奴が多い。が、たいていは俺がそうであったように頭抜けた才能はない。彼らは描くことそのものではなく、そこに描かれているファンタジーを愛している、俺がそうだったように。そこからなにかが広がることもあろう。それが何かの支えとなることもあろう。命取りとなることもあろう。

いま子どもの世代にいる俺の同族たちは、俺がそうだったようにやや大人びた、ただしキモい言葉遣いを持ち、俺が耽溺したようにゲームをし、俺がファミ通を読み耽ったようにインターネットを愛しているように見える。俺はなんの話をしているのかよくわからない。俺と、俺の穏やかな同族たちに平和あれ。