師走らしい帰り道で

 平日の仕事が年末の山を越えて、早く帰ったりできるようになった。帰り道、大きな国道の街路樹の剪定に出くわした。日はいくらか傾いてた。5〜6mほどの小さなイチョウに3人もの作業員がかじりついている。そんなのが何本も、尋常でないせわしなさで。

彼らが、後からついてきているパッカー車に追い立てられているのはすぐに見て取れた。そう見えたからといって切り枝を回収する奴らの意地が悪くてそうなるのではないことは、彼らの先に続く並木の本数を見れば分かった。一本の木に何分の時間がかけられるのだろう。切りどころを考える暇などあるまい。時々、作業区間を先導する乗用車がクラクションを鳴らす。その度に若いものが木から飛び降り、歯を見せながら車線規制のコーンを動かしに走る。そのあいだじゅう、絶えることのない車の列が、苛立たしげに隣の車線を通り抜けていく。彼らの後ろには、毎年同じ箇所を切られ続けて瘤だらけになった木が裸になって並んでいた。


駅に着いたら、壮年の清掃員がプラットフォームの床をひとり磨いていた。理由はわからないが、磨くのは柱の足元のタイルのみのようだった。彼は柄のついたスポンジ、モップ、雑巾の順で得物を替えながら、狙いのタイルからは一寸もはみ出すことなく磨き上げていく。その彼の所作。水の入ったバケツの置き場、長いものを立てかける場所の選び方ひとつをとっても疎かなところはなかった。ホームには一人の旅客もいなかったが、それへの確かな配慮があった。俺は向かいのホームに居た。それにしても彼のスポンジの動かしかた。タイルの矩形をなぞり、ぴたっと止まる。しゃにむににこすったりはしない。丁寧な1〜2往復で確実に汚れを拭い取る。スポンジはタイルの端でぴたっととまる。あれは職人の動きだ。さっきの荒くれものたちよりもずっと職人的な動きだった。電車がホームから出るとき、他の柱の下も見えた。彼が磨き上げたであろうタイルだけ、周りのとは違う色になっていた。どういう必要からそこだけ磨くのかは、俺にはわからなかった。


住んでる団地にふらふら帰ってきたら、ほっかむりをしたおばさんたちが、清掃道具の入った手押し車を押して帰って行くところだった。うちの団地の緑地帯には、フウやカエデなどの大きな落葉樹がわんさとある。それが今の季節は、それこそ山のように葉をおとす。毎日。それを彼女達が掃き清めて帰ってゆく。毎日。俺はなんとなく足元を見て、まさかと思った。道には一枚の落ち葉も落ちていなかった。たまたまここだけかとあたりを見まわしたが、本当にただの一枚の落ち葉も落ちていなかった。安堵の表情で彼女達は去ってゆく。木には縮こまった葉がまだいくらもついている。掃いてもどうせ落ちてくる。いつも朝には積もっている。それでも明日の夕方ごろには、彼女達はまたそれを掃ききって帰るのだろう。日々のなか倦んだような景色が、急に光を発しだすみたいだった。何年も住んでいて、どうして気づかなかったのか。あまりに不意のことで、俺は泣きそうになった。