Insomnia, nightmare, and meaning

さて、夜である。出て行こうか、行くまいか。いずれにせよ、今夜は眠られぬものと覚悟せよ。

夏の現場シーズンが終わり、今日から平日の仕事が始まった。土日のいずれかは現場仕事も続ける。折角戻ってきてる体力(俺のそれは体重と比例する)を落としたくない。

俺の平常運転と言うのは、不眠と眠気の繰り返しを指す。今ではだいぶん減ったが、中学生時分から週に1回は金縛りにあうし(あれは入眠障害の一種だ)、悪い角度で眠ることを意識すると、動悸がして身体が熱くなり、寝床の中で朝方まで悶々とすることになる。この動悸は足が脈に合わせて震えるほど強く、耳朶を血の流れる音が、俺をさらに眠れなくする。あまり異性に恵まれた人生ではなかったが、横に寝ているだけで脈がうるさいと女に言われて、ベッドから自分を追放したこともあった。女にはどういう風に聞こえていたのだろうか。まあ、それももう昔の話だ。不眠と耳鳴り、不安だけが俺を今も見捨てないでいる。

不眠は、肉体労働の時期はかなり減るのだが、残念ながら全く無くなってくれるわけではない。現場が遠く朝の早い日に限って、眠ることを意識しすぎてしまい、忌々しい新聞配達の音に苛まれることが多い。ほぼいつもそうと言っていい。不眠は、ただでさえ注意欠陥な俺の脳みそをさらにポンコツにするし、苛立ちや不安感を連れてくる。それにしても、バイクというのは、なぜもっと静かに走れないのか。


を書いた。俺の不眠と悪夢には、「俺が忌まわしいものを意識することで、それが現実化する」という、共通する構造がある。
埴谷雄高の『死靈』と言う小説がある。あの布貼りの表紙のせいだろうか、俺はあの小説について考えるとき、なぜか何時も真黒い色を感じる。左目の左上あたりに。黒がアナキズムの色である事は、最近になって知った。そんな一致はまあ、どうでもいいことか。
その『死靈』には、"夢魔"というのが出てくる。夢魔は、主人公の兄で革命家の高志(たかし)の病床に、夜な夜なやって来ては高志に語りかける。粛清の名の下に革命内部の者を川に沈めてきた高志を断罪する。その終わりで夢魔は、自分は何億何万光年の彼方の宇宙から、瞬時にして高志のもとにやって来ているのだ、と言う。そして、おれが乗ってくる光よりも早いものとは何か分かるか?と問い、自ら答える。それはお前の「思考」であると。夢魔の章の終わりの「おれは、お前がおれを思うとき、お前の想念に乗って出来するのだ!」と言う感じの決め台詞を読んだとき、俺は、俺の悪夢が本の中で語っているのではないかと思った。俺が恐れる悪夢のかたちを、この作者はなぜ知っているのか?と思った。

俺にとっての埴谷雄高は、政治評論家であるよりも、先ず"自同律の不快"や "虚體"、 "未出現の宇宙" など、けったいな概念を生み出し続けた頭脳だ。それらの観念を、俺が良く理解できるとは言い難い。しかし、それらは、俺の中で漠としてある「あるものしかない」事への怨恨だとか「いなかったものたち」への愛惜の念に、明らかに影響をした。

俺の悪夢のなかの魔人たちや呪い、そして不眠。これらは高志の夢魔と同じく、俺の想念に呼び寄せてられてやって来る。これらの忌まわしいものへの思考と現前は俺の場合、不可分だ。眠りへの悪しき想念が俺を不眠にするのであり眠りながら抱く悪しき想念が悪夢なのだ。俺が惹きつけられ、考えさせられ、辿り着くものは、いつも何の変哲もない定義や、トートロジーめいたかたちをしている。

染みから絵を始めることに時間を費やしたことがある。染みの中に例えば金魚を見出すと、それは俺には金魚にしか見えないのだが、他人にはまるでそう見えないというのはよくある話だ。
図像のみならず、あらゆるモノや現象に貼りついて見える意味とは、それを見る俺が勝手に呼び寄せている夢魔の眷属ではないか。今でも、この辺りが俺の引っかかりのような気がする。問題は方法だ。俺は、意味という悪夢から逃れたい。悪夢から逃れるには、逃げていることそのものを忘れなければならない。忘れ方はいろいろあるように思えるし、かつ、どれも不十分に見える。それは俺に俺でなくなることを要求する。