クリスマス、知らないひとから白菜を貰う

スーパーでいつものように目に付いた白菜をカゴに放りこんだら、「ニイちゃん、待て!」とでかい声で呼ばれた。地産品コーナーに野菜を卸してる農家とおぼしい婆さんだった。たまに呼吸機を引きずってる爺さんと野菜を並べてるのを見かける。俺はそこの野菜をよく買うが、べつに話した事はない。
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イヤホンを外して、なんすか?と返すと、「これ、1日しか経ってへんけど捨てるヤツや。芽のとこがすぐ膨れてくる、そしたら売れん。わざわざ買わんとこれ持って帰れ!」とやっぱりでかい声で言う。婆さんの持ってる半玉の白菜はたしかに古そうに見えたが、なんだか勢いに気圧されて、おおきに、ほな頂きますー、と応えた。「ここにこうやって隠しとくからな!」婆さんはでかい声で言った。はいい、ちゃんと頂きますから。
他の食材の会計を済ませた後、入り口のレジカゴ置き場の下の隙間に押し込められた白菜を拾いに戻った。地べたに裏返しの白菜があるというのはある意味新鮮な眺めだったが、当のものはやっぱり古くて、切り口は茶ばんでいるし、芯のビニールが当たるところからは茶色い汁が出てきてた。もちろんありがたく頂戴して店を出た。
俺は昨日も今日も明日も、去年も今年もたぶん来年も、ずうっと鍋ばっか食ってる。白菜からすればお誂え向きの人選だし、俺からすればとても実質的なクリスマスプレゼントだ。ありがとうよ、婆さん。

当世風の

駅前の今ふうのカフェが潰れて、今ふうなカフェになっていた。露天にテーブルを出しただけの今ふうなテラス席では、デニムにギャルソンエプロンのお姉さんが、ダークスーツのおっさん1人につきコーヒー1杯の会計を、わざわざ跪いてやっていた。すべてがなんとも当世風。今ふうの店先で威張ってる珍妙な花輪を除いて。

俺のディムけたガリバーが繁忙期に弱い

一日じゅう頭重く覇気なし。これを打ってるiPhoneが割れたのが今朝なのか昨日なのかも自分のツイートを見ないと分からなかった。それは昨日だ。バス停で靴紐を直そうとしたら胸ポケットから落ちた。たかが30センチの落下で見事に割れた。今日は良いこともあったが、まるで1週間前のことのようだ。忙しい。
まだ仕事しとるべき モニターでは、さっきまで我らがアレックス君が『雨に唄えば』に乗せて老人を蹴り飛ばしてた。映画を借りてくるなんて年に5回くらいです。
ホラーショーな『時計仕掛けのオレンジ』ならもう何度もビディーってるし、ガキの頃に原作も読んだ。そっちには映画ではいっさい説明されないナッドサットの解説があったはずだ。ナッドサットって単語もそこで知ったが、使ったことないし、いまはじめて使ったし、使ってる人も見たことない。そんな言葉存在しないかもしれない。
ガリバーは頭、ディムけるはボケてるの意だったはずだ。だからアレックスの不良仲間のディムってやつは、渾名からしてマヌケ野郎って意味だったと思うけどぜんぶ間違っとるかもしれん。僕はだいたい余計なことしか覚えてないんだが、近頃はそれすらもディムけてる。

今日はもう寝る。駅のTSUTAYAにふらふら入った時点でそんな気はしてた。
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常同的反復性志向者の自炊における献立の互換性について

⚫︎はじめに
筆者(以下、俺)は日記を書いたり書かなかったりするが、たいした理由はない。継続は力なり、俺は非力なり。
何事につけ三日坊主の俺も、毎日同じことを繰り返すのが好きというか落ち着く分野があって、とりあえず服と食事は迷わずそうと言える。例えば黒いポロシャツが気にいる、3枚くらいそれを買って毎日着る。履き心地の気に入ったズボンが2本買えないと、お気に入りの1本を夜洗ってでも毎日のように穿く。お気に入りの靴は1シーズンでボロボロになる。好きだからこそ訪れる早い別れは、対象が物であれ人であれ、そうしちまう奴の人格形成の遅れを示していると遠い目で言わざるを得ない。

ここからは俺の食事について書く。以前も書いたが、ほんのちょっと変わったのでまた書く。


⚫︎材料の調達・保存
豚肉、卵、キャベツ、小松菜、ピーマン。
最近は、これらが基本食材として冷蔵庫に常備されている。買ってきた発泡トレイ入りの肉は、ラップの一辺だけ切って、そこから菜箸をつっこんでトレイ上で雑に小分けして冷凍する。使うときはトレイごと包丁で切ってそのまま解凍する。ラップはいちいちかけ直さない。冷凍庫の中で数日間ラップの口が空いてても何の問題もない。

さっき、材料について「常備している」ではなく「常備されている」と書いたのは、それが今ではほとんど自動化されたルーチンだからだ。ただし自動化が雑なので、まだあるものをよくダブって買ってくる。
知り合いのお祖母さんが呆けたとき、なぜか豆腐と餃子ばかり毎日買ってきて、様子を見に行った家族が冷蔵庫を開けたら豆腐と餃子で一杯だった、という話を聞いた事がある。俺はこの手の話が好きだ。彼女のジョブメモリが健常であった日に、よほど豆腐と餃子が必要なことがあったのではないだろうか。久しぶりに来る孫の好物が豆腐と餃子だったとか。
一人暮らしの冷蔵庫に19個もの卵が並んだときは俺も似たようなものだと思ったが、小松菜が2パック半の時もあるし、俺の方が栄養バランスは良いし、豆腐と餃子よりは呆けても長生きすると思う。もう呆けてるかもしれないとも思う。

⚫︎食べ方
2種類もある。かお好み焼きです。
去年は夏でも水炊きばかりだったから、この1年で2倍のバリエーション増加だ。

⚫︎使用単位量(一食につき)
肉50グラム
卵1個
キャベツ1/6玉
小松菜1〜2把
ピーマン1個
季節や値段によりキャベツがネギ+白菜や玉葱1個になったり、気分によって色の濃い野菜やキノコが加わる。

⚫︎使用法
鍋の場合
肉を2単位使うか、肉1単位に加えて卵をおたまの中でポーチドエッグみたいにする。
炭水化物は、あればうどん1玉。なければすいとん、小麦粉1カップくらい。
タレはあればポン酢、なければ酢醤油。タバスコとかオリーブオイル入れたり、わりと無茶苦茶する。オリーブオイルを使うと、鍋というかホットサラダって感じの食味です。

お好み焼きの場合
卵1個とそれと同量くらいの水か牛乳、小麦粉2/3カップくらいを使う。テフロン的なフライパンだと油はいらない。
しばらく繰り返すうちに見つけた自分好みのお好み焼きはタネが少なく野菜の蒸し焼きに近い。お好み焼きのイメージに反してカロリーは足りないくらいだと思う。マヨネーズはそれを補うつもりで結構平気で使う。ソースはオタフクだが、醤油でもなんでもいい。

⚫︎結論
鍋とお好み焼きは高度の互換性を備えている。
材料はまったく同じで、今日はどっちにしようかな、という興奮がある。逡巡とどうでも良さが味わえる。
お好み焼きをピーマンや玉葱で作ったり、キャベツを茹でて水炊きと呼ぶのに抵抗がなければの話だが、やってみれば存外普通だし、栄養バランスもいいと思うし、頭のおかしい奴は(べつにそうでなくても)、どんどんやったらいいと思う。

⚫︎所感と今後
なにかを列挙や記述するのは楽しい作業だが、レポート調で書くと結論部分で無理やりでも前向きみたくなるのは、俺が受けてきた教育について何事かを示しているようにも思われる。
同時に、俺はずっと同じものを着て、同じものを食べて満足してるような人間であって、ズボンも話し柄も今後増える見込みは薄いとも予見された。とりあえず今晩はどっちを食うのか。まずはそこから片付けていきたい。



俺は外で飯食う前に写真を撮ってる奴が嫌いだ

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なのにやってしまった。
おととい夢見たとおりに王将に入り、注文した。ただし今度は迷うことなく。
焼きそばとライスの組み合わせは終盤厳しいものがあった。
頑張って食い切ったあと、せっかくの楽しみをすぐ実行することはなかった、と思った。


日付けのいらない日記

昨日は珍しく1日じゅう集中してたし、よくケアもした。いろいろも先回り気味で片付けた。
そういう日の終わりはなぜかかえって安心から遠い。バーボンをがんがん飲んでわりと簡単に安心してから餌を用意し、平らげ、またバーボンを飲んで寝た。うちに酒に入れる氷や水はない。お宅もそうですか。それはただの奇遇ですな。

3時半に起きた。王将に入って餃子、焼きそば、ライスを注文する夢だった。考えうる限りの最高のチョイスだと思ったが炭水化物ばかりだ。今度王将に入ったらそのまま注文する。その後はアラームが鳴るまで半覚半睡で、起き上がってからも動作は遅く、いつも通りのバスにいつも通りぎりぎりで乗って出勤した。思えば俺は小学生の頃からずっと朝走ってる。起きた時間に関わらず、ほぼそうなる。誰が好きこのんで乗り込んだ電車で貧血を起こすというんだ。

職場では昨日に増してよく働いた。いつになく快活に、抜かりなく、細やかに。ただし、ときどき唐突に頭を振ってた。その衝動はいつでもあるが、実際に振るのは何かのサインだ。俺はそれが何のサインかは知らないし、人には見られてないつもりです。
こういう日の俺は帰路でも元気いっぱいだ。具体的に言うと電車の中がなんか眩しいし、ドルビーよりサラウンド効いてるし、隣の肥満体が獣臭い。そいつがいる左側の肩は起きながらにして寝違えていくみたいだし、吊革にぶら下がる俺の喉の奥にさらに鉛の塊みたいのがぶら下がってる。広告の字がうるさい。何してる訳でもないのに視界に入ってきただけで蹴りたいやつがいる。そこらじゅう字だらけだ。UFJ銀行のマークは眼に似すぎているからあまり大きくしないで欲しい。マゼンタの服を着ないで欲しい。目の前で手をひらひらしないで欲しい。

この程度のことなんて誰しもが日々飲み込んでるんだろう。俺はそれをぴいぴい吐き出す。それを言い表そうとしてるあいだは少し気が紛れる。誰にも言うべきでないのはわかってるし、だからちゃんとここに書いた。付言するとバスに乗り換えても眩しかった。いまはちゃんと家に着いてる。あとはバーボンがやってくれる。

臭いと分別

部屋のどこからか嫌な臭いがした気がして、あちこち嗅ぎ回る。臭うものはない。ものでないなら自分かと、自分の身体じゅうを確かめる。件の臭いはしない。気のせいかと思うとまた臭った気がする。あちこち探し回る。部屋に臭うようなものはない。
ほんとうは俺が臭いのに、その臭いに嗅覚が麻痺しているのではないかという考えが頭をよぎる。自分の臭いはわからないと言うではないか。
嫌な臭いがしたことは疑いえない。部屋に原因は見つからない。おかしいのが俺の鼻なり頭なりなのだとして、ありもしない臭いを知覚するよりは、絶えず晒されている臭いへの感覚が鈍磨しているほうがよほどありそうに思える。それが何かの拍子に少しだけ戻って、それは嫌な臭いだった。
部屋の臭いも慣れっこになるだろうが、曝露時間によって感覚の鈍磨が起こるならば、俺は俺の部屋よりも俺自身に晒されているわけだし、部屋の臭いよりも自分の臭いのほうががわからない可能性が高い。
やはり、俺はじつは嫌な臭いがしていて、その臭いがわからないのではないか。一人きりのこの部屋で、この疑念を解く術はない。
仮に他人に訊いてみるとする。「俺って臭くない?」…こんな質問をする相手は、他人のなかでも最上級に親しい他人であろう。「うん、臭い」と言われても「まじかー。やっぱ臭いかー」と言えるような。
そいつが「そんなことないさ、気にしすぎだよ」と返したとして、最上級に親しい他人というのは俺に優しいに決まっているので俺に気を使っている可能性がある。よって俺が臭いことへの疑念は解けない。
もし最上級に親しい他人が俺の臭さを認めたなら、俺は臭いという動かし難い事実が生じる。疑念は解決をみるが、問題の臭いがわかるようになるわけではない。